From now on K.CENTURY
K.CENTURYのこれから

代表取締役 木口 栄三










あの暑い野原のまんなかで、
いまも毎日はたらいている

あのイーハトーヴォの岩礁の多い奇麗きれいな海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせというのはこれは慰労いろう休暇のつもりなのだ。それほどわたくしが所長にもみんなにも働いていると思われていたのか、ありがたいありがたいと心の中で雀躍じゃくやくしました。

叮嚀ていねいに礼をして室を出ました。それからその辞令をみんなに一人ずつ見せて挨拶してあるき、おしまいに会計に行きましたら、会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたが、だまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借りました。

あのイーハトーヴォの岩礁の多い奇麗きれいな海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせというのはこれは慰労いろう休暇のつもりなのだ。

●はじめに

「今後、会社をどのようにしていきたいのか?」ということについて、お伝えします。

その前に、そこに至るまでの背景について知っていただきたく、少しだけ、私が歩んできた人生について紹介させてください。

●中学校を卒業し、初めての就職

私は中学校を卒業後、父の紹介で赤坂にあるフランス料理の店で働かせていただくことになりました。
当時15才で初めて社会に出て働かせてもらったのですが、周りの人達は私よりもかなり年上の人達ばかり。まったくと言っていいほど、話も考えも合わない人達ばかりでした。
そのため、「孤立」ではありませんが、ほとんど誰とも話すことなく一日が終わることも少なくありませんでした。
朝9時にはお店に入り、夜は12時近くまで。日曜日を除くほぼ毎日が、仕事に明け暮れる一日でした。
入社して3カ月ぐらいは、皿洗いとジャガイモの皮むきと掃除の日々。毎日辞めることばかり考えて仕事をしていました。
そんなとき、当時のチーフが辞めることになり、厨房での料理の仕事が若干まわって来ることになりました。雑用ばかりだった仕事も徐々に料理らしいことも増え、仕事が少しずつですが、楽しく変わっていきました。

すると、それから2カ月もしないうちコックがもう1人辞めることになり、最初5人だったコックが半年の間で3名に。否が応でも料理を作らざるを得ない状況になりました。
仕事はどんどん楽しくなってきたのですが、毎日朝7時には起き、夜も終電ギリギリか、週に2~3回は帰ることもできずにお店に泊まるような毎日に。それでも当時の給料は、総支給額で15万円にも届かないのが現実でした。
そんな生活が2年弱過ぎた頃、友達が倍以上の給料を手にしている話を耳にしたほか、友達と遊ぶこともできない辛さ、このまま続けても自分で店を持つことなど一生無理ではないのかとの思いが強くなり、コックの仕事を辞めることにしました。今思い返してみれば、ただの「逃げ」だったのかもしれません。
それからは、いろんな仕事を半年ぐらい転々としていました。日払いの土方、喫茶店のウエイター、水商売…。何をやっても1カ月と続きませんでした。早い会社ですと、1日で辞めることも多かったほどです。

●塗装屋への道

そんな仕事をふらふらしていたときに、中学を卒業して高校へ行かなかった友達の多くが塗装屋になっていたことから、私も17才で塗装屋の道に進むことにしました。その一番の理由は、「とにかく、手っ取り早くお金を稼げる」という安易な理由でした。
そのため、一日でも早く仕事を覚え、独立することが夢でした。当時は早くそうなりたいがために、昼休みも夜もまったく苦に思うことなく働いていました。
やがて何年も掛かることなく、当時の社長さんから「お前ら2人で独立をしたらどうだ?」と声をかけていただき、18才のときに友達と2人で独立をするに至りました。
しかし当時の夢は、「とにかく誰よりもお金が欲しい」という理由だけが先走り、そのためには「どれだけ手を抜けば良いか」「どうやれば早く工事を終わらせられるか」、 そして「どれだけ自分自身にお金が入って来るか」、とにかくお金儲けだけのために仕事をしていました。
そんな考えで毎日を過ごし働いている中、あるビルの吹付け工事で外壁をムラムラに仕上げてしまい、もう一度足場を組み直して塗装をし直さなければならなくなりました。
再塗装のための足場の費用を友達と2人で負担しなければならなくなり、大赤字を背負いました。友達とも揉めに揉め、ついに決別してしまいました。

●再度塗装屋へ

大切な友達を失い、それからしばらくは「二度と塗装の仕事はしたくない!」と思い、違う仕事を転々としていましたが、「やっはり塗装屋がいい。もう一度塗装の仕事をしよう」と考えていた頃。今ここにいる柳掘さんの力を借り、再び塗装屋を再開することにしました。
そこで私は仕事をもらうため、新聞広告やタウンページで下請け募集中の会社に電話をかけまくりました。しかし、やっといただくことになった仕事も吹付けは一切なく、ペンキを塗る工事ばかり。当時、私は「塗装屋」といっても吹付け専門の「ガン吹き屋」だったため、ペンキを塗ることも色を作ることもできませんでした。
ほとんど未知ともいえる仕事ばかりでしたが、柳掘さんから足場組、ペンキの塗り方、色の調合など、すべててを教えていただき、何とか日々を過ごしていました。
しかし、「手を抜いて、早く終わらせて儲けよう」という本質的な考えは、変わることはありませんでした。

●突きつけられた現実

当時は今よりも景気が良く、仕事はみるみるうちに増え、募集を出せば働き手がいくらでも来る時代でした。
そのうち職人も増え、工事も切れることなくたくさん入ってくるようになりましたが、その工事が入ってくる理由は、力のある元請けの担当者が、リベート欲しさに仕事を振り分けて発注してくれていただけ。決して工事の品質や対応が良かった訳ではありませんでした。
やがてその工事を振り分けていた担当者が本社へ転勤になってしまい、後任で来られた方に、「あなたの会社はものすごく評判が悪い。営業さん達みんなが、『仕事をしてもらいたくないから工事を発注しないでくれ』と言っている」と話をされました。
何が悪いのか聞いてみたところ、職人さん達が朝早く現場に着いたときからみんな大きな声でゲラゲラ笑ったり、騒いだり。1日中そうして働いていて、ガラも悪いから不信感がつのる。そして仕事は手を抜いた分早いので、本来1週間かかる現場も2~3日で終わらせてしまい、「ちゃんとやっているのか?」というお客さんからのクレームも多かったようです。

●転機

そのとき、自分の考えが変わるあるできごとがありました。
「同級生がやっている協力会社の現場を見て来てごらん。彼は営業さんからの評判がものすごくいいから」と聞き、現場を訪れたときのことです。
正直、カルチャーショックを受けました。養生をキッチリとして綺麗に塗ってあるのを見て、あ然としました。それと同時に、「絶対に負けたくない、冗談じゃない。今後は工事の品質や対応はもちろん、お客さま、元請けさんに『よかった』と喜んでもらえる工事がしいたい!」と心に強く刻み、誓いました。 
それから当時の職人さん達と話し合い、指名をもらえるための改善点を皆で考え、改善を進めました。自分自身も「お金儲け」よりも、「お客さまが喜んでくれること」が、一番の幸せに変わっていきました。
これが、今の自分の考えに改まるきっかけでした。

●これからのK.CENTURYが目指す姿

話が長くなりましたが、今では「お客さまに満足していただく」のはもちろんのこと、「どんなお客さまからも信頼され、頼っていただける会社にしたい」と思っています。
具体的に言うならば、ものすごくハードルの高い工事があったときこそ、「あそこに任せれば大丈夫だ!」「あそこの会社に施工してもらおう!」と、真っ先に頭に思い浮かべてもらえる会社になることが、理想です。
そして、そうなることが、仕事人としての一番の喜びだと私は考えます。これは、私が社員によく話している「目を輝かせながら働く」ということです。 

●社員のみんなになって欲しいこと

ではこの会社で、「社員のみんなにどうなって欲しいか?」について伝えます。
これも先の「K.CENTURYが目指す姿」と同じく、社員1人ひとりがお客さまから信頼され、頼っていただける存在になることです。個々が志を高く持ち、目標に向かって地道な努力を惜しまず、毎日を明るく過ごして生きていってくれたらと考えています。
ですが、今現在そうなっていないのは、個々のスキルもあるのかもしれませんが、 一番の原因は、会社のバックアップ体制であったり、教育、環境が作られていなことだと考えています。
私自身、夢と現実の落差に打ちのめされることばかりですが 、そこを私が常に前向きでいて、感謝の心をもち、何があっても諦めず、みんなと一緒に歩もういう協調性や思いやりを持つことが、一番にやらなければならないことだと思っています。 

今はみんないろいろな感情があるかもしれないけど、ここからまた、1から会社を生まれ変わらせていくつもりでやっていきます。良い会社を創るために、みんなにも協力をして欲しいと思います。これからも宜しくお願いします。
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